2025年 年間標語 年間標語「強く、雄々しくあれ」(ヨシュア1章1~9節)
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『聖書の学びが必要な理由』 牧師コーナー(783)
我が教会は「道コース」という、聖書勉強を良く行う教会として知られています。しかし、聖書勉強をしたくないという理由で我が教会の正会員になることを迷っている方がおられるという話を聞いたことがあります。もちろん、そのような方に聖書勉強を強要する気はありません。ただ、我が教会が聖書の学びを強く勧めるには理由があります。
教会はキリストのからだですから、私たちはキリストがどのようなお方で、そのみこころは何かを知らなければなりません。しかし、聖書を学ばなければ知る方法がありません。ですから、イエス・キリストを信じる人であるなら聖書を学ばなければならないのです。実際、主イエスご自身も、説教者というよりも、むしろ教える教師でした。
また、弟子たちに最後の使命をお与えになる時も「守るように教えなさい」(マタイ28:20)とはっきりおっしゃいました。この使命に従った弟子(使徒)たちは教えましたし、また初代教会の信徒たちは熱心に学びました。(使徒2:42)よく知られている使徒パウロも、どこへ行く先々で神のみことばを熱心に教えることで、教会を建て上げました。
聖書勉強に負担を感じているある方の心配を覚えています。聖書の学びを通して、口だけが達者になり、高慢になる人を見たことがあるという心配でした。私もその意見には同意です。まさに警戒すべきところだと思います。教会の中で誤った聖書勉強が行われているならば当然拒否しなければなりませんし、また気をつけるべきだと思います。とはいえ、聖書勉強そのものを拒否してはなりません。
もし、聖書を学ばないのなら、私たちが父なる神とキリストを、聖霊を、どのように知ることができるでしょうか。聖書勉強のない教会生活は、霊的に無知なまま、迷信的な、もしくは単なる趣味のような宗教生活を行うほかならないと思います。
聖書勉強の「勉強」という言葉を聞いて、単なる知識を増やす目的のものだと考える方もおられるようですが、それは誤った理解です。聖書を学ぶのは知識をたくさん増やしたいからではありません。むしろ自分の生き方が変えられることを目指すためです。ですから、高い知識や学歴は必要ありません。神様を知りたいと願う誠実な心だけで十分です。我が教会の信徒であるなら、「いのちの道」を始め、「確信の道」、「新しい道」、「成長の道」を必ず修了されることを願います。そして、牧者の方であるなら、「神体験の道」まで受講されることをお願いします。
教会はキリストのからだですから、私たちはキリストがどのようなお方で、そのみこころは何かを知らなければなりません。しかし、聖書を学ばなければ知る方法がありません。ですから、イエス・キリストを信じる人であるなら聖書を学ばなければならないのです。実際、主イエスご自身も、説教者というよりも、むしろ教える教師でした。
また、弟子たちに最後の使命をお与えになる時も「守るように教えなさい」(マタイ28:20)とはっきりおっしゃいました。この使命に従った弟子(使徒)たちは教えましたし、また初代教会の信徒たちは熱心に学びました。(使徒2:42)よく知られている使徒パウロも、どこへ行く先々で神のみことばを熱心に教えることで、教会を建て上げました。
聖書勉強に負担を感じているある方の心配を覚えています。聖書の学びを通して、口だけが達者になり、高慢になる人を見たことがあるという心配でした。私もその意見には同意です。まさに警戒すべきところだと思います。教会の中で誤った聖書勉強が行われているならば当然拒否しなければなりませんし、また気をつけるべきだと思います。とはいえ、聖書勉強そのものを拒否してはなりません。
もし、聖書を学ばないのなら、私たちが父なる神とキリストを、聖霊を、どのように知ることができるでしょうか。聖書勉強のない教会生活は、霊的に無知なまま、迷信的な、もしくは単なる趣味のような宗教生活を行うほかならないと思います。
聖書勉強の「勉強」という言葉を聞いて、単なる知識を増やす目的のものだと考える方もおられるようですが、それは誤った理解です。聖書を学ぶのは知識をたくさん増やしたいからではありません。むしろ自分の生き方が変えられることを目指すためです。ですから、高い知識や学歴は必要ありません。神様を知りたいと願う誠実な心だけで十分です。我が教会の信徒であるなら、「いのちの道」を始め、「確信の道」、「新しい道」、「成長の道」を必ず修了されることを願います。そして、牧者の方であるなら、「神体験の道」まで受講されることをお願いします。
趙 南洙師